黒田セリ
黒田セリの由来
黒田セリの黒田とは、江戸期の黒田村の地名による。明治 39 年刊の「法吉名勝案内」には「昔、大字黒田、未次の平地は宍道湖より続く一帯の沼沢にして、これに繁茂する野生の芹夛かりしを取りて栽培せしに始まり其期源凡そ今を距ること 170 余年以前に在り」と記されている。さかのぼると、松江藩第 5 代藩主松平宜維の時代であり、宜維は有用植物の奨励をはかり、「宜維の助言により、野生種のセリを改良栽培し今日も黒田セリとして有名である。」(角川日本地名大辞典) とある。
宝歴年間に著わされた「雲陽大数録」には、各地の名産として、薦津芹、岡本牛房、大井芹などとあり、薦津芹が黒田芹のことと云われている。島根県立農事試験場臨時要報第 14 号には「小林金太郎、森 善太郎両氏の祖先卒先して栽培を試みたり、然れども当時、他の農家は冬季厳寒の候水田に入りて採収するは生命を短縮するもの、として久しく両家の他栽培するものなかりしと云う」とあるように藩政時代には、限られた栽培面積であり、藩主や家臣の食用で一般には、栽培、食用とも明治維新以降に広まったものとされている。
藩政時代のセリ栽培は、連綿と続いたであろう品種改良の努力の他、収穫作業は「冬季厳寒の候水田に...」とあるように、素手素足での採取であり、地区内にある大井戸から水を桶に汲み、膝までつかる、湯桶に腕を入れて暖をとるということがなされたが、草鞋、手足に甲掛、更に足には爪掛 (ワラ製の足袋) へと進み、明治初期には木製の田靴 (長靴) が考案され、明治末期頃には空の肥桶も利用された。
大正初期にはセリ田靴 (ブリキ製)、湯沸し桶が登場して、収穫作業は格段に楽になったようである。ゴム製の長靴は昭和 6 年頃より使用され始め、田舟の一端に湯沸桶をのせセリを獲っては湯で暖をとる、ということが近年まで続いた。
おいしい食べ方
主な食べ方としては鍋物に入れたり、ゆでてゴマあえにしたりして食べます。セリはとても香りがよく血液の流れをよくする効果があるとされ健康食の 1 つとしてもよくしられています。